2008年09月07日

これが個性か。

今週は親父が休日出勤だったので、土日がいつもより早起きしなくちゃいけない状態だったまる子ですこんばんは。なんか損した気分になるのはなぜでしょうなあ。

昨夜BSで『七人の侍』をやっていたので見てしまった。大好きだけど長いからどうしようかなあ…と思いつつ見始めるとついつい。でも最後らへんになると疲れてきてリタイアしちゃいました。見るのに体力いる映画だよなああれ。私があの映画で好きなのはストーリーや細部まで完全に手を抜いていない美術ももちろんあるんだけど、人物描写がとにかく好きなのだ。個性のある大人とはこういうものか、と思わされる。

やんちゃな荒くれ者の菊千代や、ストイックでクールな九蔵はともかく、侍たちの多くが一見無個性に見えるくらいに発言、行動ともにある意味『普通』なのだ。エキセントリックな部分がほとんど見受けられない。物腰も発言も温和で含蓄があり、実によく笑う。むやみに他人ともめたりもしないのだ。しかしのその一方で、ここだけは絶対に譲らないという部分に関してはとてつもない厳しさを示す。穏やかで冷静なリーダーの勘兵衛が農民達の自分勝手な行動に対して、刀を抜いてまで叱り飛ばすシーンなどは本気を見せ付けられてドキドキする。そしてそれら全てが矛盾せず、クッキリと印象的に浮かび上がり心に残る。

個性とは際限ないエゴの表出、というスタイルに一切頼らず、にこやかで温和で口数少ない常識人であっても、心の足腰がしっかりしていればかくも人間は個性的になれるのだと、今更ながら思わされるその感覚が私にとって大変に心地いいのだ。


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2008年09月06日

孤独な声

『貴様に脱帽』さんのサイトにコメントしたいのに『認証文字を入力してください』のメッセージに阻まれちっともコメントできずに悲しい思いをしているまる子ですこんばんは。『認証文字を〜』って出てくるのに、その肝心の認証文字自体が表示されないんですよ。打つ手なし。

昨日見た『孤独な声』。ロシア(ソ連)の映画監督、アレクサンドル・ソクーロフが、卒業制作で作ったというデビュー作のようなものである。政治的に色々複雑で長らく上映禁止だったいわくつきのものだけれど、のほほんと日本で生きてきた私の目にはどこがどう政治的にやばいのかすらわからない作品である。これは原作つきのもので、その原作小説そのものが発禁だったということなので、その流れなのかもしれないが、門外漢の私がこれ以上語る資格もないので黙ります(どうも主人公の性格が国の方針にそぐわなかったということらしいのだけど)。

ストーリーは内戦で心に深手を負った主人公ニキータと、彼の幼馴染みでその妻となる苦学生リューバの生活を見つめているという体裁で、それ以外の登場人物はあまり深く関わってこない。特にニキータには友人もいないし、父親とも心理的に距離をとっており、リューバだけを見ているような状態である。といっても情熱的に迫るとかそういうシーンはほとんどなく、ニキータは愛する者、そして彼女との暮らしにすら怯えを抱いているのだ。むしろリューバのほうが積極的で、その愛を受け取りたいのに受け取る自信が持てずにニキータは煩悶する。

リューバは取り立てて美人ではないが、夏の日差しのように真っ直ぐで清々しく、やさしい心と深い情愛を持った女性だ。貧しい暮らしをしているがもとは裕福な家庭に育ち、ガツガツした下品なところなど微塵もない魅力的な人物である。戦争でおそらく筆舌に尽くしがたい体験をしたであろうニキータには、その妻の愛の深さが怖いのだ。疲弊しきった心では強い愛情を受け止めきれないのだろう。

リューバは決して押し付けがましい態度はとらないし、ニキータに愛を求めまくる人間ではない(むしろ一度プロポーズを断る)。彼女と暮らせばきっと幸せになれるとわかっているのに、その幸せさえ支えられず、とうとうニキータは家出してしまう。そして街をさまよう。ニキータが心身ともにさまようシーンはどこか茫漠としているのに強烈な部分があったりして、そのバランスの悪さが悪夢のようだ。

結局その放浪は意外な形で終わりを告げ(父親がニキータを見つけ、ニキータに去られたリューバが何をしたかを知らされる)、ニキータは自宅に戻る。彼女及び、彼女との暮らしを失わないためには真剣に向き合うしかないことに気づくのだ。怯えを捨て、正面から彼女を受け止める決意が描かれ話は終わる。そういう意味では本当にシンプルなラブストーリーなのだ。

私はラブストーリーは苦手だが、それはハートマークを飛び散らかしているようなものがダメなのであって、こういうストーリーはむしろ好きなのだ。愛の不自由さ、愛の不可能性をナルシシズム抜きで描写しているものなら大歓迎なのだ。しかしどうしても恋愛って自己愛が正義になる要素が強いので、なかなかそういう作品に出会えないのだけどね。人物がどこか酔っ払ってるんだよな。そういうのはノーサンキューだ。
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2008年07月30日

立川談志さんが出てたんだね。

ケータイ捜査官7を楽しみにしていたのに、引越し騒動(騒動て)で結局全く見る時間が取れなかったまる子ですこんばんは。うぅ、残念至極。ルル〜ルルル〜を聞きたかったっす。

朝にBSでやっていた『ぼのぼの』の映画を見て地味に感動してしまった。原作ももともとちょっと哲学的だったりシビアだったりする作品なんだけども、原作の簡素なつくり(これはこれで面白い)より少し凝った感じになっていた。尺が1時間あるので仕方ないよね。夏休みの少年が些細で重大な体験をして少しだけ成長するような、夏の匂いのするお話でした。

登場するキャラは動物だけど、人間に完全に置き換えられるようになっていた。本当はとても優しいのに生い立ちのせいで地域社会から誤解されて孤立している少年(もちろん動物)や、その父親(これは人間だと完全にヤクザだと思う)。大人は色々偏見を持っているが、ぼのぼのにはその父親が寡黙で陰がありながら優しい人に見える。もちろんそれは人を見る目がまだ幼いせいもあるけれど、それが許されるのが子供の特権なのだろう。父親はある日命を落とすのだが(たぶん抗争だろう)、そこからの展開はちょっと涙が出そうになった。

あと昔から好きだったスナドリネコさんのキャラがやっぱり絶品。スナフキン系の性格でほんといい男だ。誰とも馴れ合わず一定の距離を置いているが、近づく者をやたらに拒んだりしないし、子供を子供扱いしないで誠実に接する。クールだがドライではないのだ。かっこいいなあ。
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2008年06月03日

秘密結社 鷹の爪 THE MOVIE 〜総統は二度死ぬ〜

いつも行くタバコ屋に『タスポお持ちでない方はお申し付けください』と書かれてあったので「え?ひょっとしてタスポ貸し出しするの?」とちょっとドキドキしつつ店に入ったら普通に対面販売してくれただけでホッとしたような拍子抜けしたようなまる子ですこんばんは。ここのおばあちゃんは感じがいいのでつい通ってしまう。

『秘密結社 鷹の爪 THE MOVIE 〜総統は二度死ぬ〜』を見た。愛すべき暇つぶし作品として私はこのシリーズが大好きなのだ。その誠実さゆえに世界征服を企てる総統の苦労性ぶりが面白くてたまらない。よくある『常識人がイチバン割を食ってしまう』パターンに見事に当てはまるキャラなのだ。この総統、はっきり言って世界征服できる器ではない。手前勝手が服を着て歩く正義の味方デラックスファイターにはいつもたかられるし、数少ない手下にもろくに言うことを聞かせられない。それでもめげずに総統は日々コツコツ世界征服のためにまい進するのである。その姿はちょっとかっこよかったりする。

あと、全くの思いつきかなと思わせるキャラやギャグにちゃんと意味やつながりがあるのが面白い。「ああ〜なるほど。そういう意味だったのね〜」と感心したりちょっとニヤッとしたり。ブラックジョークやちょっとしたエゲツナ系のネタもあるにはあるんだけど、根底に流れるのはちょっとのどかな空気で、見ていてブルーな気持ちにもブラックな部分も刺激されないのが本当に楽しくて心地いいのだ。
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2008年01月10日

ファザー、サン

DVD-BOXに入っていた映画のうちの一本(これで何のBOX買ったかわかっちゃうなあ)。もう一作よりも画像が明るそうなので選んでみた。

主人公は二十歳の青年。軍学校に通っており、20歳しか歳の違わない若い父親と二人だけで暮らしている。母親は主人公を生んですぐに死んでしまったという設定で、全く登場しない。が、父親曰く主人公は母親に似ているらしい。

この親子はあまりにも仲がいい。父親は元軍人で現在は退役しているのだが、用もないのに息子に会いに軍学校に出向いたりしている。息子は息子でそんな父親を鬱陶しがることなどなく、それどころか父親しか視界に入っていないくらいに父親を恋い慕って生きている。説明がなかったら、紛れもなく二人は恋人同士にしか見えないくらいだ。実際そのように受け取る鑑賞者は多かったようで、監督自身が「この映画は同性愛の映画ではない」とあえて言ったほどである。あくまでも大変に仲のいい親子を描写している、ということなのだろう。

しかし作中にはそんな二人の姿を奇異に感じる人間がちゃんと登場している。主人公の恋人の女性も二人の間には入り込めないと告げるし、主人公の軍学校での同級生も、学校を訪ねてきた父親に訝るような視線を向ける。つまりこの映画を作った人はちゃんと、二人の仲が世間一般の常識的な親子の姿から逸脱しているとわかっているのだ。

二人は互いに大変に愛し合っているのに、なぜかその姿はひどくはかなく不安定だ。満ち足りた様子など微塵もなく、欠けた部分を求め続けているようにしか見えない。抱きしめあっていても、顔が触れそうなくらいにそばにいても、安心感は全く伝わってこず、それどころか出口が見えない寂しさだけが募ってくる。

父親は息子を溺愛することで最愛の妻の影を追っていて、息子は父親の全てを知り尽くそうとしてそれが叶わずいらだっている。愛しすぎて近づけば近づくほど、決して分かち合えない部分が際立つことに気づかないで生きているのだ。そして、人には分かち合えない部分、知ることが絶対に叶わない箇所があることを受け容れなければいけないのだと、息子は自分の力で理解する。理解したとき息子は父から離れることを宣言し、そして物語は終わる。

この映画は自立という名の別れの映画だ。だけれど、闇雲に求め合う親子が別れを受け容れるとき、なぜかずっと一緒にいた最初のときよりも、見ているこっちの心が安らぐのである。好きだから、愛しているからと自分を差し出し、相手を求めることが必ずしも幸せには繋がらないと今更ながらに思わされる。

つまるところ、どんな人間も独りなのだ。自分の世界には最初から最後まで誰もいないことが当然なのである。もしも誰かがいたとしてもそれは一時的な存在で、けして住民ではない。それを当然ではないと思いこむことが苦しみの始まりなのだろう。

この親子は互いに愛しぬくことでその境地に至ったのだろう。それはきっとすごく幸せな別れ方だ。たぶん何度も何度も見る作品になりそうな気がする。
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2007年09月25日

コックと泥棒、その妻と愛人

ハーレーダビッドソンを乗りこなす人を見かけた際、瞬間的に頭の中で『Born To Be Wild』を自動再生させていたまる子ですこんばんは。別に興味はないのに勝手に引き出しが開くんだよなあ。

『コックと泥棒、その妻と愛人』を見た。先日深夜に放送していたことだけはラテ欄で確認していたのだけど、作品自体はほとんど見たことがなかったのだ。かなり昔に友人が勧めてくれたのだけど気乗りがせずそのままになっていることもあり、気にはなっていたのだ。

私はまずタイトルから『料理人と泥棒と泥棒の妻と泥棒の愛人』が出てくるのだとばかり思っていた。違うんすね。愛人とは泥棒の妻の愛人でした。この時点で全く知識がないことが判明。

舞台は超高級レストラン。そこの常連で毎日のように泥棒一味がやってくるのだが、この泥棒の頭目がもうほんとにまったく、天晴れなほどに下品で粗野で凶暴で口数が多く誰からも愛されておらず、言うなれば最低のゲス野郎である。毎日ガツガツ最高級料理を食べているのに味なんか全くわかっちゃいないタイプである。

筋立てそのものはシンプルなので割愛するけど、何が印象に残ったかというと美術や衣装、小道具、料理にいたるまで何もかもが豪華絢爛なこと。しかもどれもこれも豪華絢爛なのにとてつもなく悪趣味でグロテスクでえげつないのだ。行き過ぎた美は醜悪さを放つのだろうか。勿論計算されてそうなっているのだろうけど。

その中でもとりわけ興味深かったのは料理である。高級レストランが舞台ということもあり、出てくる料理はどれもこれも極上品なのが見ていてもわかる。実際一流料理人が料理を担当したらしい。しかし、これが一つも美味しそうに見えないのだ。見た目は素晴らしいのに、見ているだけで吐き気を催してくる。あの空間であの料理を一口食べたなら、際限ない嘔吐に見舞われそうな気がする。なんというか、地獄の料理みたいな感じ。一つ残らず悪趣味でエグイのだ。実際見ている間ずっと胸がむかむかしていた。なぜか『臓物』という言葉が頭に浮かんだりした。

見ているうち、この映画はストーリーを楽しむのが主旨ではなく、その絢爛豪華な空間に渦巻く過剰極まりない汚らしさやグロテスクさを味わうのが目的なんじゃないかと思うようになった。その下品さに中てられて、存分に不快感を募らせるのが正しい見方なのかもしれない。あと見ていて思ったのは『食べる』という行為は醜さや汚さを根源的にはらんでいるのだなあということ。ゴージャスも過ぎれば毒となるということ。

見たあとほんとにしばらく食欲がなくなって困りました。ここまで生理感覚に打撃を受ける映画とは思わなかった。
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2007年04月21日

不可解な映画。

最近なんだかやたらに爪が割れて仕方ないまる子ですこんばんは。あまりのばしたりしないようにしてんですけどね。薄く割れるというより、端っこからポキポキ欠けていくのよなあ。

昔深夜のテレビで偶然見た映画(映画なのかもわからない)で、いまだになんだったのかわからなくて頭に引っかかっているものがある。見たのはもう10年くらい前なのだが、そのとき感じた「何だこれは?」という感情、そしてその不可解さに引っ張られて最後まで見てしまったあとの取り返しつかない感が消えてくれない。で、どんな内容だったのかといいますと(昔のことなので記憶が曖昧なところも多い)。

その映画は日本のものではなく、中国語圏のものだったと記憶している。殺人鬼と名乗る青年に、女子大生がインタビューするというフォーマットで話は進む。その女子大生は犯罪心理を研究しているのか何かだったと思う。一見おとなしそうなその青年に多少怯えつつも彼女は、なぜ殺すのか、殺したときの気持ちはどうだったか、などの質問を重ねていく。

その青年はきわめて冷静にそれに答えていくのだが、やはり人格の根本的な部分に常識人の理解を超える歪み(というか致命的なほどに良心が欠落している)があり、インタビュアーの理解を拒むような発言を繰り返す。言ってしまえばそれだけの内容であり、時間も大して長くなかったように思う。

それの何が引っかかるのかというと、フィクションなのかノンフィクションなのか判然としなかったからである。映像は稚拙といっていいほど素っ気なく、いわゆるプロっぽさは皆無であった。しかしその素人くささは演出なのかもしれず、その辺は見極められなかった。

しかし、あれがもしフィクションであるならあまりにも起伏が少なく殺人鬼の人格が類型的過ぎる(ノンフィクションを装うにしても非情にお粗末だった)。もしあの内容がノンフィクションであるならばまあ理解できないこともない。ノンフィクションがいつもフィクションを超えるとは限らないからだ。あくまでも物語的な視点で見た場合「えー。いくらなんでもベタすぎるわ」といいたくなる犯罪者も大勢いると思う。しかしそうなると、それをテレビ放映した理由がさっぱりわからないのだ。

そして私が一番不思議に感じたのは、その日の新聞のラテ欄に、その映画のことが一切書かれていなかったことである。省略されたタイトルすら書かれてなかったように思う。記憶に自信はないが、ラテ欄のデータではその映画が放送されていた時刻にはすでに放送を終了していたように思う(野球はシーズンオフだった)。ゲリラ放送だったのか?

私が過剰反応しているだけで「実はこうこうこういう理由で、なんてことないものだったんですよ」と誰か説明してくれればどんなにホッとできるだろう、と思う。どなたかご存知の方いらっしゃいませんかねえ。
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2007年01月29日

二日連続で深夜に映画を見てしまった。昨夜見たのは阪本順治監督、藤山直美主演の『顔』である。何となく見始めて目が離せず結局最後まで見てしまったパターンだ。

まあ強烈な作品だった。正直言って阪本監督の作品はあんまりはまらないんだけど、これは違った。主人公の正子の行動を見ていると身につまされて先が気になって仕方なくなるのだ。たぶん根底にかなりの割合で正子的な部分が私にあるのだと思う。

正子は実家(クリーニング屋)から出ないままリフォームの仕事をして暮らしている中年女性で、コミュニケーションスキルがとても低い。容姿もさることながら人格にも全く愛嬌がない。不器用で愛想がなく、頭もあまり良いほうではない。少女漫画やメロドラマが大好きな部分もあるが、他人に対しては笑顔も見せず、単語で会話をするような人物である。

彼女には妹がいるのだが、きれいでおしゃれで要領がよく辛辣。そんな妹は全てに劣る愚鈍な姉の存在を恥じて生きている。一家を支えていた母が亡くなった夜、妹は姉に向かって「私はこの家を喫茶店にでも改築する。それでお姉ちゃんを許す」と言い放つ。そのときの正子のセリフは秀逸だ。「許してくれんでもええよ」と妹を睨みつけるのだ。妹が姉を恥じているのは妹の勝手であり、許しを請うことを要求される筋合いなどないと正子は思っているのであろう。

とにかく正子から感じられるのは怒りである。自分を取り巻く環境、そしてそれを呼び寄せてしまう自分自身への怒りがすさまじい。口論の末正子は妹を殺して逃亡生活を始めるのだが、そこから彼女は自分から逃げ続けることになる。後ろ向きの全力疾走を余儀なくされるのだ。

彼女はとにかく逃げ続ける。自分以外の誰かになってその場その場でどうにか生きる。しかしその暮らしの中でもあくまでも彼女は鈍くて不器用である。他人を口先でだましたり何かを繕うことがない。ただひたすら顔を隠して、自分ではない暮らしを送りながら逃げるのだ。

逃げなければならない状況にならなければ、彼女はこんなにも他人と接触することはなかっただろう。自分自身ではない何かになったからこそ得られる感情及び絆や屈辱が、彼女を成長させていくのだ。最初彼女はまるで赤ちゃんのようである。嫌なことを強いられたらものすごい声で絶叫し、年齢不相応な様子でうろたえたりする。それが少しずつ変化するにつれ彼女の顔は変貌していく。藤山直美はすごいな。

彼女が逃げ続けるのは自分に戻りたくないからだろう。つかまったら最後、彼女は妹を殺した吉村正子という人物以外にはなれない。彼女はおそらくその状況になるのがいやという理由のみで逃げているのではないだろうかと思った。映画はそんな彼女の望みはきっと叶わないだろうと思わせて終わる。
捕まったら彼女はどうなるのだろう。またあの無口で強情で得体の知れない中年女に戻るのだろうか。
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2006年06月25日

魁!!クロマティ高校 THE MOVIE

ふと思い立ち(私はたいていふと思い立って行動する。ミスター場当たり主義)、映画版の『魁!!クロマティ高校』を借りてきた。実写だしなあ…という気持ちがないではなかったが、気が向いちゃったんだから仕方ない。

内容は結構面白かったです。劇中番組の『プータン』が一番面白かったけど。着ぐるみの遠藤憲一氏がいかつい顔で「怖くないプー」と言うのがツボでした。またしっぶい声なんですよ。

話が勢いよくザーッと進むので上手く説明できないんだけど、神山が非常に似てたのが面白かった。ああなるんだねえ、神山が実在すると。

すこし気になったのはメカ沢兄貴の声かなあ。アニメでは若本規夫さんがこれでもかというくらい男伊達な声で演じてらっしゃったんですが、映画では武田真治氏でした。絶対若本さんでいってほしかったなあ。どっちみち非現実キャラなんだし。メカ沢兄貴の着ぐるみ(っていうのかなあ)の中には鈴村健一氏の弟さんが入ってらっしゃった模様。

あと直接ストーリーとは関係ないけど、DVDをぞんざいに扱う人って結構多いんですね。私何回かDVD借りてるんですけども、読み取り面の方に指紋がべったべたについてるんですよどれも。中には擦ったような傷が入ってるものもあったし。私はあの部分には絶対手を触れないようにしてるんですが、そんなの気にしないね〜な人って多いんだなあと思いました。あ、それかひょっとすると自分のじゃないから雑に扱うのかなあ。「どうせ自分のじゃないしどうなったっていいや」って本気で思ってる人って私が思ってるよりも多そうだし。
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2006年06月18日

鬼火

私は天気の悪い日にはエリック・サティを聴きたくなるのだが、そのサティの曲が効果的に使われている鬼火という映画もまた、天気の悪い日に見たくなる作品である。

ストーリー自体は単純なものだ。若いときに社交界でならし、今は落ちぶれているアル中の高等遊民アランがかつての友人達を訪ね歩いた後にピストルで自分の心臓をぶち抜くまでの数日を描いたものである。

といっても暴力的でだらしない描写はなく、サティの曲もあいまって終始陰鬱なトーンで話は進む。多分これは見る人によってずいぶん主人公の評価が分かれる作品だと思う。こんな弱虫の甘ったれのわがままっぷりになんか付き合いきれるか!と感じる人もいるだろうし、「これは俺か!?」と感じる人もいるだろう。私はどちらかというと後者だ。ただ彼には華やかな時代があっただけマシだろとは思うけども(笑)。

高校時代から時々見ている映画なのだが、今日初めて気づいたことがあった。それは主人公アランがかつての親友や恋人と話すとき、たった一度だけ心の底からの本音を漏らして相手を試すことである。それはたいてい「そばにいてほしい」「触れたい」といった相手を求める言葉である。

しかし友人や恋人達はアランが発したその言葉の本当の意味に気づかないのだ。全員一人残らず気づかないのである。そして軽くあしらってしまう。ある人は「ダメ。明日には戻らないと」と言い、ある人は「男と女の間には潮時がある」と言う。その瞬間アランは相手に対して「もうダメだ」と感じて去るのである。

そのあといくら彼らが「明日遊びに来て」と言ったり「大事な親友だ。俺は味方だよ」と言ったりしてももうアランにとっては意味が無いのである。掛け値なしの心からの頼みはもうすでに彼らに拒否されてしまっており、そしてアランはその願いを受け容れてくれること以外には何も相手に望んでいないからである。

高校生の時にはこんなことには気づけなかった。歳をとるのも悪いことばかりじゃないな本当に。
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2005年12月18日

オー!マイDJ

ちょっと熱が上がりかけていたので、土曜日は必要最小限のことだけをし、あとは毛布をかぶってじっとしていた。金曜日の夜中に『オー!マイDJ』をテレビでやっていたのでそれを録画して見ることにした。もし字幕だったらどうしようかと思ったが、吹き替えで安心した。

正直言うと韓国映画とかドラマはちょっと得意ではないのだけど、この映画は良かった。すごい良かった。泣いてしまったよ。

風采が上がらず、周囲からも少し軽んじられている主人公の男性が、不器用ながらも一直線に小細工なしで女性を愛するのがすごくカッコいい。告白シーンも鼻水を拭いながらなのがリアルでいい感じだった。なんかドンドコのぐっさんから男くささを減らしたような主演俳優の風貌がまた設定にグッとはまるのだ。

ニセラジオ番組を軽快に仕切る時も、「これが俺の愛だっ!!」と叫ぶときも、それぞれに坪井さんの声がまたぐっと来るのですよ。あー、こういう冴えないけど、真っ直ぐで打たれ強い青年役もびたっとはまるのだなあ…としみじみ尊敬いたしました。
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2005年10月02日

日陽はしづかに発酵し…

「ひびはしづかにはっこうし…」と読む(しづか、はわざと)。

これは私の大っ好きな映画である。『七人の侍』とかも大好きだけどね。アレクサンドル・ソクーロフ監督の作品で、知ってる人のほうが少ない映画だと思う。1988年の作品なんで、もうだいぶ前の映画だ。時代の最先端を思わせるものが何一つ登場しないので、いつ見ても古めかしく感じる作品かもしれない。

ストーリーは、ほんとあって無きがごとくというか、あるにはあるんだろうけど明確な起承転結が存在しない。主人公の医師、ロシア人のマリャーノフ(ジーマと呼ばれている。以下ジーマ)は、トルクメニスタン(当時はソ連の構成国だった)で診察をしながら『小児の高血圧と信仰』というテーマで論文を書いている。彼は自分はどこにいようと同じだという考え方の持ち主で、故郷に思い入れもなければ、今自分が暮らしている街にも執着らしい執着は持たない。他人に対しても非常に素っ気なく、たった一人の親友とだけ親しくしている。

そんなジーマの周辺で、異変が起こり始める。いきなりゼリー漬けの伊勢海老が届いたり(ジーマの姉が注文したことになっている)、呼びもしていないその故郷の姉(あまり仲がよくない)が突然訪ねてきたり。しかも謎の海老は姉が注文したものではない。ライフルを持った謎の男が突然ジーマの家に篭城し「小説を書くな」と強要したりもしてくる(この男は結局軍隊に射殺される)。ピストル自殺をした男と対話(死体置き場で直接話しかけられる)するはめになったりもする。

そうかと思えば苦渋に満ちた顔の幼児が現れ、住み着こうとしたりする。ジーマも珍しくその幼児とは仲良くするのだが、結局突然取り上げられてしまう。最後には親友の家にも異変がおき始め、壁に黒い奇怪な物が貼り付き汁を出し始める。しかしその親友はそのことを全く意にも介さない。結局その親友はトルクメニスタンを離れていくことになり、ジーマは彼を見送って話は終わる。

ストーリーを書いても何がなんだかわからないのだが、実際こんな話なのだ。しかし私が好きなのは筋立てではなく、この作品の持つ雰囲気なのである。

トルクメニスタンはソ連の一部とはいえ、アフガニスタンと国境を接する、とても暑い国なのだ。そこに暮らす人々は、じりじりとした暑さの中で暮らし、何かを待ち続けているようにも、全てをあきらめているようにも見える。澱のようにたまっていく倦怠と暑さが、まさに発酵しているようである。画面が黄色く処理されているので、じっと西日に照らされているような感覚になる。

あと、ジーマ役の男性が絶品である。この人は当時プロの俳優ではなかったそうだが(今プロなのかどうかわからない)、なんとも言えずセクシーな雰囲気の人なのだ。人格に全く脆さが見えないジーマにぴったりのルックスで、私は大好きである。ともするとかなり薄情で嫌な奴に見えかねないジーマだが、彼のおかげで魅力的なキャラになっていると思う
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2005年07月10日

主人公の彼氏がなあ…。

掃除機をかけていたら、掃除機に足の小指をがつっとぶつけてしまい、ややはがれ状態になって途方にくれております。風呂入るのが怖いです。サンダル履けません。皆さんは健やかな足の小指を保ってらっしゃいますか?


とうとうセミが鳴きだした。梅雨もあけないのというのに。雨の中セミがシャイシャイ鳴いているのはなんともシュールな光景ですな。あのセミは、夏の晴れ間を拝めるんでしょうか。


『フレディvsジェイソン』を昨日見たんですが。私、ヒロインの彼氏(最期まで生き残る、主人公格の男性)に全然人間的魅力を感じませんでした。彼女(ヒロイン。アダチユミに似てる気がした)のことを想って驚異的な行動力を見せるのはいいのだけども、自分と彼女のことしか考えてないやん、と言いたくなるような行動ばかりでした。

自分と彼女が助かりさえすれば他の人はどうなってもいいのかーー。
もちろん、あんな極限状態で余裕などないだろうし、どうしたってああなるのはわからないでもないけどさ、友人知人が犠牲になっても全然心を痛めてないように見えるのですよ。ヒロインの方がよっぽど義侠心があったぞい。なーんか薄情に見えちゃったよ。それ以外の人物は(もちろん悪役二人は別)魅力的な部分があったんだけども(リンダーマン君は勇敢で優しくてとても好感を持った)。
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2005年05月17日

面白かったよー。

『アメリカン・サマー・ストーリー アメリカン・パイ2』という映画を数日前に見た。

ジャンルは…なんだろうなあ。『青春エロコメ』って感じでしょうか。アメリカでは人気シリーズだそうで、パート3まで出ているようです。一応、1から見ようと思ったのだけど、2しか置いてなかったし、目当ては2だったのでとりあえず2だけ見ました。2から見てもある程度わかるしね。

もうね、出てくる人みんなアホばっかり(笑)。でも愛すべきアホというか、悪人が出てこないのが気楽でいい。メインの男子大学生5人組がそれぞれいろんな問題や悩みを抱えてるんですが、なんかそれら全てがエロス方面なんですな。エロコメ系なんでそうなってるんでしょうけどね。まあ、キャラはそれぞれ誇張して描かれているんでしょうけど、でもアメリカで人気だったということは、少なくともああいう要素を持った人たちがいっぱいいるということなんでしょう。さすがですな。ステイツは違うね(笑)。


全体的に楽しい映画でしたが、私が一番笑ったのは『瞬間接着剤とあるものを間違えてしまった悲劇』ですかね。あれは腹抱えて笑いました。気持ちはわかるが、ちゃんと確認せぇよ(笑)。

あと、スティーフラーのキャラクターがもう。あの手の映画には必須アイテムですな。自分勝手で思慮が浅くてつめが甘くて自分を勝手にリーダーみたいに思ってるキャラ。勝手に女性の部屋をあさってあるものを握り締めて大はしゃぎしているシーンに、彼の全てが凝縮されている気がする。

それと、結局主人公とくっつくミッシェル(だったかな)結構好きかも。ああいう『ちょっと変わってるけどかなりの善人』というキャラわりとツボなんです。(ダーマ&グレッグのダーマとか)二人の最後のシーンはちょびっと感動しましたよ。どこに感動って転がってるかわかんないね。


実は坪井さん目当てで見た部分が大きくて、忘れた頃にお声が聴こえてくると「よっしゃ」みたいな気分になっておりました。あのパーティー大好き男がどうにも面白くて。パーティの匂いを嗅ぎつけてやってくるんだろうなあ。そしてお声も超軽妙。間違い電話の主はどうだったのか、何回か見たけど結局わからずじまいでした。6:4で、そうなんじゃないかなとジャッジしたけども。


「ワシはシモネタはノーサンキューじゃ」と思われるかたや「バカ映画なんてごめんだね」って思われるかた以外は楽しく見られるんじゃないかなあと思いました。何しろ殺伐としてないのが好感持てます。
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2005年05月13日

意外に渋いなあ、えびボクサー

『えびボクサー』を見た。捨て鉢な暮らしを送っていた元ボクサーの中年男が、2メートルもあるえびを手に入れ、それを見世物にして一山当てようとする映画である。その設定からしてもうすでにずれている。構造的にはバカ映画だ(褒め言葉)。

しかし、これは単に巨大えびが大暴れし、人間たちがとっちらかったドタバタを繰り広げる内容ではなく、もっと渋い物が根底に流れている映画だ。

登場人物の中に、頭のいい人は一人もいない。性格のいい人もいない。だからといってバカで根性悪かといえばそうでもない。凡庸なのだ。物語ではよく『普通』を描こうとはするが、『凡庸』というのはなかなか描かれない。まあ、どんな人でも詳細に見れば何かが突出しているのであり、100%凡庸であることは逆に非凡であることになってしまうのだけどもね。

その、凡庸な人たちが、とにかく目の前のことに必死になっているのだ。何に必死になっているかといえばえびを売り込むことなんだけど、巨大えびを売り込むという荒唐無稽な行為を、何か別のことに置き換えてみれば、これはごくまっとうな、凡庸なお話なのである。

結局主人公は、えびに情が移り、えびを見世物にすることに堪えられなくなっていくのだが、えびにボクシングをさせるということにつながる行動が、図らずも主人公に愛を教えてしまうという、この辺にまたバカ映画の片鱗があるのだけど、全体的には渋い映画でした。ヘンな映画であることは間違いないですけどね。

個人的にはもうちょっとバカ指数が高くてもいいとは思うけど、そういう映画は他を当たればいいので、これはこれでアリな気がする。
posted by まる子 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月06日

『バグダッド・カフェ』はいいなあ。

『コンスタンティン』(キアヌ・リーブス主演の映画)の話を唐突にふられ、
「え?ロシアで火傷した男の子?」と訊きかえしてしまった。
どうも私は微妙に時代が止まっとるなあ(苦笑)。
元気にしてるんだろうかねえ、コンスタンティン君。


ふと気が向いて、映画の『バグダッド・カフェ』を見た。
主題歌(『コーリング・ユー』結構有名)含め、いい映画ですなあ。
何もないモハベ砂漠にある寂れた店『バグダッド・カフェ』に起こる、
些細で大きな奇跡の話なのだが、私はこの映画の景色が好きなのだ。


専門的なことはわからないが、わざと黄色っぽい画面になるように処理されているらしく、
砂漠独特のけだるさが本当によく伝わってくる。
それと対照的な綺麗な青い空と、そびえ立つ給水塔のコントラストも鮮やかだ。
私は荒涼とした景色がとても好きだから、余計にそう感じるのかもしれないが。


あと、主演女優のふくよかな包容力にも圧倒された。彼女は素敵だ。
posted by まる子 at 23:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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